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観光案内 - バルセロナの歴史


ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが作ったと伝えられる古都バルセロナは、紀元前6世紀、当時フェニキアと勢力を競うギリシャの築いた植民都市として初めて史上に登場します。バルセロナの名は 、紀元前236年にこの地をイベリア半島経営の根拠地に選んだカルタゴの将軍ハミルカル・バルカス(ハンニバルの父)に因んでつけられたバルキーノ(BARCINO)が由来となっています。

カタルーニャは、カルタゴ支配の後、ローマ統治下にその第一隆盛期を迎えますが、ローマ帝政が崩壊してゆく5世紀、ゲルマン大移動の最中、西ゴートの侵入を受け、さらに713年には回教徒に征服されました。しかし9世紀初頭、ピレネーを越えて北進するアラブ・イスラム軍を撃退したフランク王国は、ピレネー山脈東部に「イスパニア辺境領」を設け、キリスト教勢力の前線の砦とします。やがてこのイスパニア辺境領は次第にフランク王国から離れ、事実上バルセロナ伯国として独立してゆきます。

1137年に西隣のアラゴンと合併してカタルーニャ=アラゴン連合王国となり、歴代のバルセロナ伯はアラゴン王位をかねることになりました。南進してバレンシアを回教徒から奪回したのも、このカタルーニャ=アラゴン連合王国です。バルセロナは同国最大の地中海進出の拠点として繁栄、特に13世紀ジャウマ一世の時代より地中海への拡張政策に乗り出し、バレアレス諸島、シチリア王国、サルディニアを征服し、コルシカの大半を制圧しました。14世紀にはビザンチン帝国のギリシャ人、トルコ人と交戦を繰り返し、アテネ侯爵領、ネオパトリア侯爵領(ギリシャ)を制服、15世紀には更にナポリを支配下に置く大版図を手中にしました。また11世紀ごろには俗ラテン語からカタルーニャ語が派生し、政治・経済の繁栄を背景に、カタルーニャ語による中世文学の黄金時代をむかえます。独自の議会や「ジェネラリタット(全カタルーニャの代表"DIPTACIO del GENERAL"が変形)」と呼ばれる政府機関が生まれたのも、この時代のことです。  

しかし14世紀のいわゆる「中世末期の危機」(ペスト、農民反乱、貴族と国王の対立...)はイベリア半島でも特にバルセロナを中心とするカタルーニャに大きな打撃をもたらします。15世紀末のカトリック両王(アラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルの夫妻)時代をへて、16世紀以降は両国が一人の国王のもとに治められることになり、また新大陸の植民事業に見られるように、カスティーリャ王国に覇権が移る一方、カタルーニャ=アラゴン連合王国の中のカタルーニャは衰退期に入ります。

18世紀初頭のスペイン王位継承戦争では、カスティーリャとカタルーニャ=アラゴンの独自の法制を尊重し伝統的な統治を約束するハプスブルク家の候補と、フランス風の中央集権をめざすブルボン家の候補がスペインの王位を争います。この戦争に勝利して王位についたブルボン家のフェリペ5世は、カスティーリャを中心とした政治・行財政・法制の画一化を進め、ジェネラリタットは解消、カタルーニャ語の使用も禁止されました。一方世紀の終わりごろには啓蒙主義治世の農業・産業振興政策もあって、特にカターニャでは大きな経済発展が見られ、19世紀前半にはスペインでほぼ唯一産業革命を成し遂げた地方として、一気に経済先進地域となります。  

産業ブルジョワジーという活力ある新しい社会層に加え、カタルーニャ語の復権運動も始まり、このようなうねりの中から19世紀末には自治を求める政治的カタルーニャ主義が誕生します。1930年代の共和国時代には、自治制度(政府機構は中世・近代のジェネラリタットの名称を使用)が認められます。スペイン内戦('36-39)中はカタルーニャは最後まで共和国側で戦い、内戦後半の一時期は戦火を逃れたマドリッド政府がバルセロナに拠点を置いたこともありました。内戦後はフランコ政権のもとカタルーニャ主義は強い抑圧を受けながらも、民主化運動の一翼を担います。75年のフランコ没後、77年にはジェネラリタットが復活し、現在は78年憲法および79年自治憲章にもとづいた自治制度が機能しています。

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